著者
江利川春雄 Private or Broken Links
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カテゴリ
History
発行日
2016-03-25
読書開始日
2024-04-21
3選
- 1900年までの海軍兵学校の入試問題の特徴は「書取」と「会話」が課されていたことである.すでに述べたように,明治前期の海軍兵学校では外国人教師が英語で授業をすることが多く,生徒も英語で受け答えできることが求められたからである.そのために,入試の段階で英語を聴く力や話す力を調べた.しかし,1901年度には,兵学校の入試から英語の書取と会話が削除され,以降は英文和訳,和文英訳,英文法のみが出題された.(中略)その理由としては明治中期以降,大学の授業さえも日本語で行えるようになったことが大きい.それを象徴する出来事として,1903年に東京帝国大学英文科のラフカディオ・ハーンの後任に夏目金之助(漱石)が就任した.もはや英文科ですら日本人教師が担えるまでになったのである.こうして,英語で西洋学問を学ぶ実学としての「英学」の時代は終わり,英語を一つの教科として学ぶ「英語教育」の時代へと移行した.
- 英米留学組の冷遇につながる「外国語閥」を生み出した原因はどこにあったのだろうか.その背景を辿っていくと,やはり陸軍の中枢幹部を排出した陸軍幼年学校における外国語教育の構造的欠陥に行き着く.幼年学校の外国語教育は1897年にロシア語が加えられて以来,軍事情勢や仮想敵国の変化を反映することなく,実に40年間もドイツ語・フランス語・ロシア語のまま固定されてきた.陸軍幼年学校では一般の中学校との違いを特異な外国語教育に置いたため,情勢の変化にあわせて,もっとも必要とされる英語を導入するわけにいかなかった.(中略)幼年学校の出身者の中でも,特にドイツ語班出身の者が陸軍の最エリートを構成した.(中略)ドイツ語選修者でドイツ留学組が陸軍内で最大勢力を誇るようになった.(中略)東條氏が陸軍大臣となるや,陸軍の中央部の要職は,ほとんど幼年学校のドイツ班出身で占められた
- 外国語を英語に限定する目下の政策も危険である.政府は,大学の授業を英語で行えば補助金を出すと言った自己植民地化のような政策を続ける灘,小学校から大学まで,世界で例のないほどの英語一辺倒主義を推進している.(中略)外国語学習は対外観や世界観にまで影響を与える.言語はその背景にある文化と切り離し難く結びついており,外国語を学ぶことは相手国の文化への興味や教官を促進することと密接につながっている.(中略)英語は決して「世界共通語」などではない.世界で約72億人の人口のうち,約60億人は英語を使えない.世界には6000を超す言語と,それらを話す多様な民族が共生している.そうした多様性に対応した外国語教育の機会を保障することこそが,世界を正しく認識し,世界の人々と平和的に共存するための条件ではないだろうか.米国は,2001年の9・11同時多発テロの一因がイスラム圏などの言語や文化への無理解であったことを反省し,2006年に「国家安全保障言語構想」(National Security Language Initiative)を策定した.そこでは,学校での外国語教育を強化し,それまで手薄だったアラビア語,中国語,ヒンディー語,ペルシャ語などを重点言語に指定している.
メモ
太平洋戦争中の首相,東條英機は英語を知らなかったという衝撃の事実から始まる本書は,日本軍の敗戦を英語,および外国語教育という切り口で解説する. 戦前の日本では.特に西洋学問を学ぶために英語は必須であった.お雇い外国人教師によって英語で,数学・工学などの授業が行われるため,英語を学ばなければその後の実学も学ぶことができなかった.
初期の大学・高等教育機関では外国語(特に英語)で授業が行われ,旧制高校ではカリキュラムの三分の一以上の時間が外国語教育に充てられていた.(1897年海軍予備校では)英語の週時間数は1学年の9時間から徐々に増え,5学年では13時間,高等科では14時間.当時の中学校の2倍,現在の中学校の3-4倍も英語を教えていたことになる.
ここでの英語学習の特徴は,ListeningとSpeakingの技能に重きが置かれていたことである.
しかし1900年(明治中期)を境に,「会話」が入試から消え,いわゆる受験英語化が始まった.これにより,英語学習において大事な「会話」ができない学生が増え,英語を読めても話せない学生を量産することになった.
本書は何度も,外国語教育において「会話」の重要性を強調する.
- パーマーなどが提唱するオーラル・メソッド
- パーマーは,英語を英語のまま教えるオーラル・メソッドの指導者として1922年に来日し,日本の英語教育改革のために文部省内に英語教授研究所を設立した.
- 江本少佐の直接教授法(ダイレクト・メソッド)
- 1文を2つか3つに区切って極めて早口に2,3度言って聞かせ,さらに2回教師に続いて言わせて板書する. 精度が一通り読み終わるとすぐ消してしまって,今一回聞かせる.そして個々の生徒に言わせる.
- 戦後教育のオーラル・アプローチ(限られた単語により音体系や文法構造を習得し,模倣・記憶や文型練習を重ねることで英語使用の習慣形成を図るとした)
海軍では比較的英語が教えられており,世間ではストライクを「よし」,カレーライスを「辛味入汁掛飯」と呼んでいた頃でも海軍兵学校の野球では審判は「ストライク!」「ボール!」と言っていたと記録があるらしい.
海軍兵学校では英語教育は一定の成功を修めたが,大局としてはこれ以降,読解力中心の教養主義的な教育が根強くなり,軍事情報の把握・活用のために外国語を学ぶという性格付けが脆弱となっていき,通信機器の発達も相まって情報線の重要性が高まるにつれて問題が顕在化した.
一般には「太平洋戦争中の学校では英語教育が禁止されていた」という言説をよく耳にする.たしかに,日中戦争後には戦意高揚のプロパガンダとして英語禁止の弾圧が強まった.しかし,文部省は太平洋戦争下でも国民学校高等科を含む中等学校以上で英語教育を継続しており,そのために1944年に至っても英語教科書の発行を続けていた.ところが,英語教育を行おうとしていた中等・高等の学校でも,悪化する選挙区のもとでは,勤労動員や学徒出陣によって授業休止状態になる場合が多かった.
これは知らなかった.戦時中,英語教育は禁止されることはなかったが,しかし教科書は着実に薄くなっていった.1938年 100%とすると,43年には28%にまで減少した.しかし,全く教えられなかったということはなかったらしい.
また外国語閥の存在も,英米の情報を正しく捉え,政策決定するのに妨げとなった.
士官養成学校で教育される外国語は固定化されており,日中戦争に至るまで外国語教育をドイツ語・フランス語・ロシア語のみに固定していた.
特に陸軍はドイツ語閥が強く,これがドイツの過剰な崇拝と英米軽視に繋がった.ドイツが勝利する大前提で戦略が組まれており,視野狭窄となっていた.よく言われる日本帝国軍の陸軍海軍の乖離というのは外国語閥も一つあったのだろう.
大戦末期,ポツダム宣言を提案された鈴木貫太郎首相は「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し,断固戦争完遂に邁進する」と表明したが,これは同盟通信社により ignore it entirely. と英訳され,イギリスのロイター通信とアメリカのAP通信が reject と報道した.そのため,連合国側は日本がポツダム宣言の受諾を拒否したと判断し,原爆投下に繋がった.誤訳があの悲劇を引き起こしたとも言える.
一方で,米国の日本語教育はどうだったかというと,1908年から若手の語学将校を日本に派遣して,日本語および日本の国情を研究し始めていた.9ヶ月の集中訓練で15000人の下士官に日本語を叩き込んだ. 米国の日本語学校の特徴は
- 優秀かつ語学的才能のあるエリートを選抜
- 日本語母語話者を教官
- 少人数の能力別クラス(クラス編成も整列も成績順であり,退学になると前線に飛ばされるため,最下位クラスにとどまっている者の中には精神を病んだり,自殺する者さえいた)
- 日本語のみの使用を原則
- 集中的に訓練(1日授業4時間予習4時間,週6日.1年で日本語の新聞雑誌が読め,手紙がかけ,会話することができる) という極めて効率的なものであった.
アメリカ軍が中国戦線を解放した際,日本人と中国人の見分けがつかないため,発音で区別したという."Robins fly" のような R と L を含む単語のうち,両方をRと発音すれば日本人として射殺,両方をLと発音すれば中国人なので助けたらしい.発音一つで命がけである.
話を戻す.本書が素晴らしいのはその結論である.
米国は2001年の9・11テロから反省して,それまで手薄だったアラビア語,中国語,ヒンディー語,ペルシャ語などを重点言語として,外国語教育を強化しようとしているのに対して,日本は英語教育一辺倒であり,これは大日本帝国陸軍が視野狭窄に至る背景と同じであることを暗に伝えようとしている.
日本は外国語教育でまたも過ちを犯そうとしているのかもしれない.