著者
藤原正彦 Private or Broken Links
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カテゴリ
Biography & Autobiography
発行日
1994-07-01
読書開始日
2025-03-27
3選
- 合否判定時に私立と公立が同等に扱われるのか,という疑問だった.「同等ではありません。もし類似した成績なら公立学校出身者をとります。教官、設備、家庭などではるかに恵まれたパブリック・スクール出身者が、優位にあるのは当然だからです。条件の違うものは区別するのが、公平と考えるからです」 日本の入試における公平とは,随分違うものだと感心した
- だからハムレットの中でも、内大臣ポローニアスが息子にこう諭している。 「人の話には耳を傾け、自分からはめったに話すな」 「誰かれかまわず握手して手の皮を厚くするな」 イギリス人には、こちらから話しかけてやるに限る。見かけとは大違いでおしゃべりな彼等は、嬉しくて自ら胸襟を開くのである。
- アングロサクソンはゲルマン民族であり、その特徴は、長く暗い冬を体現した文化である。それはドイツ人気質を最も完全に表わすと言われる、「ニーベルンゲンの歌」に見られるような、苛酷な宿命観の文化である。つらい運命の重みにじっと耐える文化である。一方のラテンは、地中海地方の明るい陽光を体現した、陽気で楽観的な文化である。
メモ
数学者の藤原 正彦氏は「国家の品格」をかつて読んだことがあるが,元々筆がうまいのだろう.本書も楽しく読めた.
著者がアメリカでの教員生活を経て,イギリスはケンブリッジでの生活を余すことなく,時には子供たちの喧嘩といった私的なものにまで触れた自叙伝である.
誇り高き,重厚な歴史のケンブリッジに,至るところで唸らされることになった著者はそれを「遥かなる」に込めたのだろう.気候,歴史,民族,文化の違いを痛感することになる.
特に著者はアメリカのコロラドに住んでいたこともあり「欧米」と一括りにされがちな西洋文化をここまで欧と米に分けて解像度高く解説するのは案外貴重かもしれない.
さてイギリスで家族ごと移り住んだ著者は,子供がイギリスの小学校でいじめにあっていることを知り,そこでやられたらやり返せと子供を叱咤激励する.それは著者も通過した道だからという.
戦法の一は、多勢を相手に一人で闘う時は、その中で最も強い人間にだけなぐりかかること。その二は、水車のようにぐるぐると両腕をぶん回しながら、相手に向かってしゃにむに猛突進する、というものである。私はこの水車戦法を忠実に実行して、またたく間に餓鬼大将の地位を占めたのであった。
しかし,これは功を奏さず大きな事故に繋がり,結局のところ著者は校長先生に直談判することになった.現代こそ親が学校に出ていくことは珍しくないが,本書の時期を考えるとこれは非常にカルチャーギャップであったことだっただろう.
著者の奥さんも英語を学ぶクラスに通うようになるのだが,そこで解説された「イングランド人か各国人をどうみるか」というのがまた面白い
中国人=ずるい。礼儀正しい。 日本人=残酷。働き蜂。 アメリカ人=自慢好き。金持。 ドイツ人=戦争好き。効率的。 ロシア人=合理的。我慢強い。 イタリア人=臆病。陽気。 フランス人=情熱的。頭の良い。 スペイン人=陽気。誇り高い。 ユダヤ人=音楽好き。金銭欲の強い。 スコットランド人=卑しい。けち。 アイルランド人=短気。呑んだくれ。 イングランド人=ユーモア。スポーツマンシップ。
今ならこんなことを言えば時と場合により大荒れだろうが,そもそもracistの意味がアメリカとイギリスではかなり異なるようだ.
(アメリカでは)レイシストは、人殺しと噓つきの中間あたりに位置していると思ってよい。他人をレイシストと呼ぶことは最大の侮辱であるし、レイシストの烙印は社会的抹殺にほぼ等しい。
一方
イギリスでは異なる。アメリカ人がレイシズムを忌み嫌うのとは全く違って、ここではマナー違反ほどのものととらえられている。長年の友人である、コロンビア大学教授の文化人類学者は、イギリスはレイシスト国家である、と断言した。彼はユダヤ系であるが故に、人種差別には特に敏感である。
同じ英語圏でありながら「レイシスト」「レイシズム」の意味がここまで異なるのは,やはりアメリカのような多民族国家ではそれが不可能であることは容易に想像がつく
イギリスで認められようと思ったら下品なジョークよりも「ユーモア」が必要だという.例えば次のようなものだ
「以前日本から英文学科を訪れた人は興味深かった。チョーサーをすらすら読めるのに、ほとんど英語を話せなかった」 (中略)「アーサー・ウェイリーは源氏物語を上手に英訳したが、日本語は話せなかったらしい」 と言ったら、ニッコリうなずいてから、 「よし、あなたの勝ちだ」
ユーモアがなければ単なる悪口になってしまうところを類似のケースで和ませる.イギリス人は単にシャイなだけで話しかけると,見かけとは裏腹に饒舌な事が多いという.それはユーモアの相手を見定めることが必要だからだろうか.
イギリスで忘れてはならないことは宗教である.
イギリス人の大部分は、一応キリスト教徒ということになっているが、実際には無宗教に近い。日曜日に教会へ行くのは、ごく少数のカトリック信者くらいである。(中略)教義というものに対する距離感覚は、プロテスタントにもカトリックにもつかず、中道としてのイギリス国教を作ったことや、保守党にも労働党にも与せず、二大政党制を維持するところにも表われている。イギリスに独裁者が出現したことがないのは、他のヨーロッパ諸国と比べて目立つが、やはり独裁者につきものの教義に対する距離感覚と言えまいか。イギリス政治の一貫した特色である現実主義は、理念とかイデオロギーに対する距離感覚と言えるし、哲学におけるイギリス経験論は、原理とか原則に対する距離感覚と説明できるのではなかろうか。
国教会からイギリス経験論に繋がるまでの考察が非常に面白い.一歩引いた,達観したようなところがあるのだろう.知的な人には見られることだ.
イギリスでの葬式の淡泊さは、よく知られている。柩が運び込まれ、全員で讃美歌を合唱し、牧師が故人の徳を讃えるくらいで、ものの二十分位で終わるらしい。その後で故人を偲ぶパーティーが開かれても、ワインや紅茶を飲みながら談笑するばかりで、普通のパーティーと識別できないほどのものという。故人を想い悲嘆にくれるというのが、欧米でもアジアでも当たり前だから、かなり異様と言えよう。
この感覚も面白い.現実を生きるということだろうか.
一部の知的な人は主に学術分野で想像力が非常に豊かであるにも関わらず,自身の未来については無頓着なタイプの人がいる.浮き世離れした人とも言う.資本主義はこのような人に厳しいが,こうした人もまた資本主義に蔓延る競争を「ラットレース」といって軽蔑する.
自分の立ち位置を知るために他人と比較することは必要だろうが,過度に比較することが競争を生み,競争は真理から遠ざかるということだろうか.
自分の価値を自分で高めたり,揺るぎないものであるという確信があるのであれば,他人との比較でなく,自分の立ち位置を理解することができるだろう.あるいはそういったメタ認知に関心が低いのか.
しかし「どう見られるか」に無頓着であったならばイギリスの紳士淑女のカルチャーは生まれてこないだろう.我々からすると不思議なカルチャーである.
だから「遥かなる」のだろう.いつか近づいてみたい.