著者
西川恵 Private or Broken Links
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カテゴリ
Dinners and dining
発行日
2007-02
読書開始日
2024-04-11
3選
- (イギリスを始めてブッシュ大統領が国賓訪問した際)最大の同盟国である米大統領にさえ最高レベルのワインが出されていないことだ.予算を抑えるためもあって,最高のワインは大人数の饗宴では避け,女王と国賓だけのプライベートな饗宴のときに出される.
- 皇室とモロッコを結んだ一人の外交官,宮内庁 元東宮侍従長「山下和夫」氏.山下氏はモロッコの重要性を知っていた.「親欧米派の安定したモロッコが地中海の南岸に存在することはヨーロッパの安全保障に大きなプラス.間接的に日本も恩恵を受けているわけで,日本はこうした国を応援しなければなりません」イスラム教国でありながらユダヤ人に寛容な社会で,アラブとイスラエルの仲介を果たすなど,柔軟で現実的な外交政策.舛添要一のラバト王立大学でのモロッコのモハメド皇太子含む日本の近現代史講義.91年9月皇太子さまのモロッコ訪問.などを実現.
- イランのハタミ大統領の訪日では「日本の詩とイランの神秘主義」という講演.「アリストテレスの哲学は人間を『話す合理的な動物』と定義づけましたが,イスラム神秘主義や禅は沈黙の卓越性と優越性を説いています」「自分たちの固有の文化と思想の泉を探求することによって,テクノロジーの浸透の中でもアイデンティティーを喪失することはないのです」言葉に絶対的な信を置く西洋に対して,日本の禅やイランの神秘主義は,沈黙から多様な示唆と寓意を汲み取ること,相手の言うことにまず耳を傾けることが対話の始まりであり,相手の立場を重んじるのは東洋,アジアの風土であること,またグローバリズムにあっては,それぞれ固有文化を尊重することが大事であることなどを説いた.(中略)日本,イラン両国では伝統的に詩というものが思索を表現する重要な手段であって,その点で両国は共通の文化的土壌をもつ
メモ
ワインをはじめ,饗宴の献立から外交史を見ていくという奇書.視点が面白い.といっても,献立そのもので語れることはそう多くないので訪問時のエピソードや歴史,与太話も多く展開される.
当然,高価な食品がたくさん出てくる.例えばデザートワインの最高峰シャトー・ディケムの名前などがポンポン出てきて,羨ましい限り.(一度飲んだことあるけど,その晩たくさんワインと日本酒飲んでてあまり覚えていない… もったいない…) デザートワインをこれまでチョコレートとかその名前の通りデザートに合わせたことはあったが,本書に掲載されている饗宴の献立ではフォアグラとのマリアージュについて書かれていた.今度試してみよう(最近値上がりしてるけど…)
個人的にはモロッコに思い入れが深いので,日本皇室とモロッコ王室の外交で山下和夫という人が一躍買っていたことは勉強になった.
プロトコールでの対立もある.日本は相手側のプロトコールを受け入れる.モロッコ国王訪問時には,乾杯を省き,グラスにワインを注がない.ゲスト国の宗教,風俗,習慣に経緯を払う. イラン大統領のエリゼ宮でのトラブルがある.イラン側「アルコールを飲まないので,ボトルもテーブルに出さないでくれ」フランス側「ソフトドリンクも提供しているが,ワインも注ぐ.飲む飲まないは本人の自由というのがフランスのプロトコール」 これは異例のアフタヌーンティー(紅茶にクッキー)で妥協成立したという.アフタヌーンティーは宗教の垣根を越えて世界共通の平和的な食事文化として発展する余地があるな,などと思った.
イスラム教なんてまだ可愛いもので,中国はどの国でも横柄なようだ.訪日準備では中国側が神戸を訪れる朱首相のためその時間新大阪止まりしかない新幹線の列車を新神戸駅まで延長して運転するよう執拗に求めた.日本に対してだけではなく,中国というのはどこの国に対してもこういう態度らしく,中国を受け入れるのは現場担当からすると大変らしい.
日本とオランダの戦後処理は知らなかった.サンフランシスコ平和条約と1956年の両国間で交わされた議定書によって法律的には解決していたが,オランダ側にだけ戦後ながらく反日感情が残っていたという.それに関しては断片的にしか知らないのと,本書の記述もイマイチなので,他サイトを引用する
オランダが現在のインドネシア、当時のオランダ領東インドを植民地としていて、民間のオランダ女性や子供たちまでが劣悪な環境の中で、強制抑留され、過酷な扱いを受けていた. 戦時中約6万5千-7万人のオランダ人婦女子が抑留所に隔離されていた。戦争終盤になると抑留者が増え、竹で作られた台の上に母子4人で大体畳2畳ほどの場所しか与えられなかった。 抑留所の一日は、点呼で始まり、昭和天皇のご真影の前で最敬礼を義務付けられていた。日本の警備兵たちはおおむね残酷で些細なことで、殴る蹴る、南国の炎天下にバケツの水を両手に持って立たせるなど、暴力が日常的だった。参照:「母への賛歌」(いのちのことば社) 戦争が終わりに近づくにつれ、食料は一日おかゆ一杯あればいい方で、医薬品もなく、栄養失調や、病気が蔓延し、多くの犠牲者が出た。 オランダは、今のインドネシアを300年以上、植民地として統治しており、インドネシアと言ってもその頃はまだインドネシアという国があったわけではなく、当時は部族により分割された広大な島々からなる土地で、太平洋戦争後、初めて国として成立した。現在のオランダの富裕な財産の基礎の多くは、この植民地から得た利潤だと言われている。 この300年以上の統治の中で、当然、現地人との間に子供も生まれたが、植民地政策では現地人との結婚は許されていなかった。しかも、人種差別をはっきり打ち出した、あくまでも白人を頂点としたピラミッド型の社会で、このピラミッドの上ちかくにいた人たちが、主に日本軍の収容所、抑留所に入れられたのだった。南アフリカの人種差別の事をアパルトヘイトというが、この言葉はオランダ語で、そういった人種によって階級を定めた植民地統治がここでも行われていた。それ故、抑留者たちにとって白人種でない日本人に頭を下げなければならないことは、ことさら強い屈辱だった。この収容所に入れられた人々の数は、捕虜、婦女子すべて合わせるとおよそ9万人と言われている。つまり、父親は、捕虜として、母親と子供たちは民間抑留所に入れられていたと言う事になる。また、男の子は、11歳になると母親から引き離され、少年抑留所に移され、そこで様々な苦役が課せられた。こういった収容所に入れられなかったオランダ系の人たちはラッキーだったかと言うと、決してそうではなく、収穫したほとんどすべての食糧を日本軍が取り上げてしまうので、食料が極度に乏しく、しかも、独立運動が始まっていた地にあって、現地の人たちとの間で生活するのは容易はなかった。
こうした対立とデモの中,天皇皇后両陛下はオランダ女王の歓迎晩餐会に訪問.王宮に入った後,戦没者記念慰霊塔に足を運び,花が置かれ,深く黙祷された.ここでの1分以上にわたる黙祷はオランダ中にテレビ同時中継され,非常に張り詰めた空気であったという.反日感情デモに遮られる恐れが十分にある中,献花式が無事に終了したとき,女王は涙したという.
日本がオランダに対して考えるのは,何よりリーフデ号に始まる,鎖国時代の外交でポジティブな感情であるのに対して,ここまで非対称的な国民感情というのも珍しい.
88年のワインは「力強く濃厚で,トリュフの香りがする官能的な味わい」と評価されているらしい.覚えておこう.