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ポール・グレアム Private or Broken Links
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Reference
発行日
2005-01-01
読書開始日
2025-02-20
3選
- ビジネスに関しては、2つのことだけを知っておけばいい。ユーザが気に入るものを作るということと、使った金より多くの収入を得るということだ。この2つがちゃんとできれば、それだけで多くのベンチャー企業よりも進んでいることになる。残りはやってゆくうちに分かってくるだろう。
- 何かについて非常に優秀な人は、自分の素晴らしさをそれほど信じていなくて、ほかの人がなんで同じようにできないのか不思議に思うものだ。私が会ったことのある、偉大な仕事をなした人は、ほとんどの場合、自分が偉大な仕事をしているとは思っていなかった。彼らはたいていいつも自分のことを、間抜けで怠け者で、頭がまともに動くのは10日に1日しかなくて、きっと世間がそれにいつかは気付くだろう、なんて思っている。
- 良いハッカーになる鍵は、たぶん、自分がやりたいことをやることだ。私が知っている素晴らしいハッカーを考えてみると、彼らに共通することのひとつは、彼らが自分から望まないことをやらせるのは極めて難しいだろうということだ。これが原因なのか、結果なのかは定かではない。もしかすると両方かもしれない。(中略)最高のハッカーはもちろん賢いけれど、それはほかのいろいろな分野でも同じだ。ハッカーについてだけ特有な資質というのはあるだろうか。何人かの友人に尋ねてみた。最初にあがってくる答えは、好奇心だった。賢い人はみな、好奇心が強いと私は思っている。好奇心は単に知識の一階微分だからだ。それでも、ハッカーはとりわけ好奇心が強いようだ。特に、ものが動く仕組みに関しては。ある意味それは当然かもしれない。プログラムというもの自体、実質的に、ものが動く仕組みの巨大な記述だからだ。
メモ
Yahooストアに買収された viaweb というSaaSの元祖をLispで書いたポール・グレアムという人のエッセイ
「エッセイ」という単語はフランス語の動詞“essayer”から来ている。それは「試す」という意味だ。エッセイは、もともとの意味においては、何かを理解するために書いてみるものだった。)
という具合に,教養もたっぷり出てくる.2005年に書かれた本で技術面では古い箇所もあるが,
ポール・グレアムはスタートアップを売却した後,イタリアで絵画を学び,ハッカーは画家のようなものと見出したらしい.両者はクリエイティブな面が似ているということらしい.
この本ではハッカーという人がどんな人種かを明らかにしようとしている.ハッカーという人種は管理下におくことが最も能力を発揮できない.やりたいことができない環境は彼らの才能を潰す.
政府の役人が喜ぶような言葉で状況を説明してみよう。自由権は飾りものでも、米国の古風な伝統でもない。自由権は国を富ませるものなんだ。国民一人当たりGNPと国民に許された自由とのグラフを書けば、はっきりとした傾向が見て取れるはずだ。自由権は結果じゃなくて、実は原因ではあるまいか。私はそう思う。自分の言いたいことが言え、やりたいことがやれる社会では、影響力のある人々に支持される解ではなく、最も効率の良い解が勝つ。権威主義が幅をきかせる国は腐敗する。腐敗した国は貧しくなる。そして貧しい国は弱くなる。税率と税収に関するラッファー曲線と同じようなものが、政府の持つ力に対して見られると私は思う*。少なくともその可能性は十分に高く、わざわざ試してどうなるか見てみるのは愚かなことだろう。高い税率とは違って、全体主義は間違っていると気付いても引き返すことができない。
「自分の言いたいことが言え、やりたいことがやれる社会では、影響力のある人々に支持される解ではなく、最も効率の良い解が勝つ。権威主義が幅をきかせる国は腐敗する。腐敗した国は貧しくなる。そして貧しい国は弱くなる。」 単純明快な論理だ.アメリカだけでなく日本も,政府と企業はコンプライアンスを盾に権威主義に走っている.だからスタートアップが勝機を持っている.
ジェファーソンはこう書いている。「政府への反抗の精神は、ある種の状況では非常に価値のあるものだ。だから私は、そのような精神が常に保たれることを望む」 今日のアメリカ大統領がそういうことを言うと想像できるかい。年老いたおばあさんの忠告のように、国の創始者たちの言葉を聞いて、自信のない後継者たちは自らを恥じてきた。これらの言葉は、私たちがどこから来たのかを思い出させる。ルールを破る人々が、アメリカの富と力の源であるということを。 ルールを守らせる立場にある者は、他人がそれに従うことを自然に期待するだろう。だが、望むものに慎重であれ。望んだ通りのものが得られてしまうかもしれない。
「ルールを破る人々が、アメリカの富と力の源である」 アメリカにも硬直した大企業病が蔓延していることを嘆いているが,それでも状況はまだ日本よりマシな気がする.
富はもっと根本的なものだ。富とは、私たちが欲しがるもの、食物、衣服、住居、車、道具、観光地への旅行、そういったものだ。お金を持っていなくてる富を持つことはできる。例えば、車を作れだとか夕食を料理してくれだとか洗濯をしてくれだとか、何でも命令すればやってくれる魔法の機械があったとしたら、もうお金はいらないだろう。一方、南極大陸のど真ん中、何も買い物ができない場所にいるとしたら、いくらお金を持っていても無意味だ。 富こそが欲しいものなのであって、お金ではない。でも富がそんなに重要なち、どうしてみんな金を儲けることについて話しているんだろう。それは一種の省略記法なんだ。お金は富を移動する方法のひとつで、現実では普通、富と交換可能だ。しかし両者は違うものだ。「お金を作る」ことについて話すのは、ニセ札作りでもしょうというのでなきゃ、むしろ実際に裕福になる方法を理解する妨げになる。
お金ではなく経験を買おう,ってことですね.
大学を楽しようとしている学生は、就職しなくちゃならないと周りから言われるし、自分でもそう考える。まるで組織のメンバーになることが重要であるかのように。でももっと直接的に言えば、人々が欲することを始めることが必要なんだ。そのために会社に所属する必要はない。会社とは、人々が集まって他の人々が欲することをやる集団にすぎない。人々が欲することをすることが重要なのであって、集団に属することは問題じゃない。 たいていの人々にとっては、既にある会社に就職して働くことが最良のプランだろう。それでも、そうすることで本当は何をしているのかを理解しておくことは重要だ。仕事とは、会社の他の人々と一緒に平均化されつつ、人々が欲することをなすことだ。
会社と自分のやりたいこと,なすべきことが一致していないことは前提とされていない.それでもまず会社に就職すると,人々から欲される.それはその会社の他の人々と一緒に平均化されるからだ.その後は段々と自分が平均化されればその会社に居座れば良いし,平均とは逸脱していくようであれば辞めれば良いということのようだ.
ベンチャー企業は、ここ20年の間にシリコンバレーに出てきたものじゃない。 富を創り出すことで裕福になることが可能になってからというもの、それをしたすべての人が、同じレシピを使ってきたんだ。測定と梃子だ。小さな集団で働くことで測定を得て、新しい技術を開発することで梃子を得る。このレシピは、1200年のフィレンツェでも、今日のサンタクララでも、何の違いもない。 このことを理解することで、ヨーロッパはなぜあんなに成長したのか、という重要な問いの答えが見つかる。ヨーロッパの地理が重要だったのだろうか。 それともヨーロッパ人が人種的に優れていたのだろうか。それも宗教のせいか。 答えは(少なくとも近似的には)、財を成した人にそれを持っていてもよいとする、という強力で新しいアイディアの波に乗ったからだ。 それが許されて初めて、財を成したい人は、盗む代わりに富を生み出すようになった。
私有財産制が徹底されることで盗みが減ったという話. しかし,現代社会を見る限りこの私有財産制を突き詰めたことで現代の様々な箇所で歪みが出てきているように思う.現代の貧富の格差,そして富の再分配といった議論が出てきたのは私有財産制を徹底したからだ. 一方で,ボルネオ島のブナンの人々はシェアリングエコノミーで活動しており,独特の経済観念を持っている.
17世紀の英国は、役所に入ることが富への道と考えられていたという点で、現代の第三世界とよく似ている。当時の多くの財産は、商業よりも、私たちが現在では汚職と呼んでいる行為によってもたらされだ*。19世紀までにそれは変わった。賄賂は常にあったし今でもなくなっていないが、その時点までには、政治は欲望よりもむしろ虚栄心を満たす場となっていた。技術が、盗むよりも速く富を創り出すことを可能にしたのだ。19世の典型的な資産家は、延臣ではなく産業資本家であった。
現代で役人が豊かなイメージはまったくないが,古来にはそれは今で言うGAFAMに入社するような幸運をもたらしたようだ.価値観が違いすぎる.
官僚だけではなく,家庭の中の婦人像もかなり違ったようだ.
100年前にあった社会的な区別ももはや存在しない。当時の小説やエチケットマニュアルを読むと、まるで何か奇妙な種族の社会を覗いているように感じられる。「ビートン夫人の賢い主婦マニュアル』(1880年刊行)によれば、「友人関係の継続に関してですが、家庭を守る責任を考えると、夫人は以前の生活で得ていた友人関係の多くを手放すことが必要になる場合もあります」とある。裕福な夫と結婚した女性は、そうでない友人と関係を絶つことが期待されていたんだ。現在そんなことをしたらまるで別世界から来た人のように思われるだろう。それにそういう人生はとても退屈になりそうだ。人々はまだ確かに多少は階層によって分かれた生活を送るが、それは富よりもむしろ教育に基づく理由が大きいだろう*!
現代では教育階層によって分かれた生活を送ることを著者は暗に肯定している.あぁ,そういうこともあるかもしれない.
デザインとリサーチの違いは、新しさ対良さの問題だと言えると思う。デザインは必ずしも新しくある必要はないが、良くなくてはならない。リサーチは必ずしも良くある必要はないが、新しくなくてはならない。この2つの道は頂上で一緒になると私は思う。最高のデザインは新しいアイディアでもってそれまでのものを凌駕するだろうし、最高のリサーチは新しいだけでなく、解くに値する問題を解くのだ。したがって私たちは発極的には同じ方向を目指しているが、別々の方向から近づいていると言えるだろう。
面白い.デザインとリサーチ,これを意識してできるようになれば新しいアイディアも,良いアイディアも得ることができるだろう.
友人の幾人かは、ハッカーの集中力に関して言及した。一人の言葉を借りれば、「ほかのすべてのことを頭から追い出せる」能力だ。私も確かにそれには気付いていた。また、何人かのハッカーが、ビールを半杯でも飲んだら全くプログラムできなくなると言っているのも聞いたことがある。ハッキングは、ある種の特殊な集中能力を必要とするのかもしれない。素晴らしいハッカーはたぶん、非常に大きなコンテキストを頭の中にロードすることができて、したがってコードを一行眺めている時にも、その行だけでなくそれを取り巻くプログラムすべてを見ているのかもしれない。ジョン・マクフィーは、ビル・ブラッドレイのバスケットボール選手としての成功は、彼の並外れた周辺視に依っていたと書いていた。通常、完全な視力は、だいたい47度の垂直周辺視角を持っている。
これはあるかもしれないが,現代ではIDEのコーディング補助機能でかなり負担は楽になっているように思う.