著者
山川徹 Private or Broken Links
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カテゴリ
Social Science
発行日
2018-06-20
読書開始日
2024-09-08
3選
- <覚行窮満>(かくぎょうぐうまん)「意味は,悟った通りに行動すること.つまり思ったことをすぐに行動に移す.それが,私達が理想とする仏様の姿なのです.海雲さんは,この寺を出て,中国に渡り,カルピスを開発した.ほかにも様々な分野に挑戦して,常に次のことを考えて実践してきた.海雲さんは,覚行窮満を貫いた人だったのではないかーそんな気がするんです」
- 阿含経に、〈すべての行為の効果を有するものは、私欲を離れたる根から生ずるものなり〉という一節がある。(中略)釈迦の教えとは、無限の慈悲をもって、すべての衆生──人間をはじめすべての生物を救済しようとする教えと三島は受け止めていた。そして、その教えこそが、三島が、釈迦を尊敬する最大の理由でもあったのである。(中略)国利民福。三島は、国家を富ませるだけでなく、国民を豊かに、何よりも幸せにしなければならないと唱え続けた。(中略)明治時代に近代的な教育を受けた三島は徹底的に「国利」を叩き込まれた。また釈迦を道しるべに生きる三島は必然的に「民福」に辿り着く。
- 「おじいさまは『いつも一等になりなさい』と話していました。一番ではなく、一等と言うのがおじいさまの口癖だったんですよ」(中略)「どんな分野でもいいから一等を目指さなきゃダメだ。カルピスは乳酸菌飲料の世界で一等だ。世界で一等が難しかったら日本で一等でもいい。それもダメなら東京の一等でもいい。とにかく一等を目指さなきゃあかん」
メモ
カルピス創業者の三島海雲の生涯について書かれた本.三島海雲は明治時代,お寺の子供として生まれ,僧侶としての教育を受けた.元来真面目な性格であったようで,父の読経がいい加減であったとき三島海雲は
「そんな形式的なおつとめをするだけの仏像なら尊敬に値しない」三島はそう言い放つと仏像を庭に持ち出し,新聞紙で焼いてしまう.
と,中々の素直さと行動力である.
その後,西本願寺が同志社の設立に刺激を受けて設立した教育機関である「文学寮」にて三島海雲は修行する.これは現在の龍谷大学の系譜にあたる.
ここで親鸞の教えなどを学び,僧侶としての人生の生き方を身につける.
親鸞は「聖人の言うことを何でも聞く」と語る弟子の唯円に,「それなら必ず浄土に行けるから1000人の人を殺しなさい」と命じる.「それはできません」と拒否する弟子に師は次のように諭す.「殺せないのは,殺すべき縁が無いからだ.自分の心が良いから人を殺さないのではない.逆に人を殺すつもりがなくても,縁があれば何人もの人を殺すこともできる.だが,そういう人間だからこそ,仏様は救ってくださるのだ」
生涯に渡る師である杉村楚人冠(本名:杉村広太郎)に出会ったのもここである.当時,英語教師として働いていた楚人冠は後に日本ジャーナリズムの草分けとされる朝日新聞の名物記者となる(記事の誤りをチェックする記事審査部をはじめて創設した人物となる)
生来,体調の弱かった三島海雲は体調不良に悩まされることが多かった.極端な自己療法を考え実践し,その結果憔悴し病院に度々お世話になる.
そして文学寮を卒業し,東京の仏教大学に入るが,ここで指導教官から北京行きを薦められる.これで北京で日本語の教師となる.当時,日本の大陸進出の時代の波に乗って,たくさんの若者が中国に渡った.その中に三島海雲がいたのだ.
三島海雲はその後,現在の内モンゴル(モンゴル高原)を旅する.
モンゴルには内モンゴルと外モンゴルがあるが,日本と縁が深いのは内モンゴルだ.現在内モンゴル自治区と呼ばれ,中国に位置するこの場所は日本が満州国を建国したところでもある. 一方で,それと区別するために外モンゴルという呼称があるが,これはモンゴル国という独立国家である.
内モンゴルには草原が広がり,標高600-1400mでなだらかな丘と平野と盆地が草原を形成している.
最初,三島は日本政府が戦争に必要となる軍馬を調達するためにモンゴルに向かった.モンゴルに向かったのはビジネスをするためだった.
しかし,そこで三島はモンゴル民族の乳製品と出会った.モンゴル民族は様々な乳製品を作って暮らす.
三島は<牛酪>を遊牧民にとってもっとも神聖なものと語る.モンゴル語でシャルトす.卵の黄身のような色で寒天のように固まっているバターだ.チーズに似た正方形の一口大に切られたホロートが<乳豆腐>
ここで三島はモンゴル探検中体調不良を起こすが,この乳製品を接種し体調不良がみるみる回復したという体験をした.
ビジネスの方は軍馬を苦労して調達しても,長旅によって馬が疲弊し,あまり良い値がつかなかったようである.
三島海雲は無一文で帰国後,モンゴルで食べた乳製品のことを思い出し,それを国内で製品化することに成功.それをカルピスとして発売した.当時は健康ブームもあり,カルピスは売上を順調に伸ばした.
三島海雲はその後も自己流の健康法を探り続け,ヘソ焼きなるものも考案していた.
拡大鏡を使ってヘソの回りを焼かんばかりの高温で照射するのが、自分の独創で、秘訣でもあると自伝で語っている。かつて三島が、ヘソに灸をすえると、とても効果があった。そこで、もぐさの代わりに、日光でヘソを照射してみようと考えたらしい。 主治医も「ヘソの下には膵臓がある。熱で刺激すれば膵液の分泌を促進するからよろしい」とお墨付きを与えたという。
三島をビジネスマンと考えたとき,まず挙げられるのは,自分のアイディアを(日本一の)専門家に聞きに行く,行動力である.
これだ、と思ったアイディアがあると専門家にすぐに聞きに行った。すぐに動かないと気が済まない人でした。自分の意見や考えを押し通すのではなく、本当に正直に素直に納得できるまで質問する。その道の権威の専門家たちも『三島さんになら』と協力を惜しまなかった。『日本一主義』を可能にしたのが、海雲さんの魅力だったんです」
起業界隈でいわゆる「壁打ち」というやつである.これを日本一の専門家に聞きに行ったというのは,どういう人脈かというと「文学寮」時代の交流が欠かせない.僧侶としての教育を受けた同胞たちは三島にとても協力的であった.
そして,周囲の人々の幸福,平和を願う気持ちの強さである.戦後も科学技術の宇宙利用・平和利用に人一倍関心があったようで,こうした思いが三島の周囲の人々が彼を助けてくれたのかもしれない.
〈あの月へロケットが! もう戦争は不可能だ、このことだけは断言できるぞ〉と。 三島の分かち合いの気持ちや平和への思いは、仏教の考え方で、自分と他者のへだてをなくす自他一如からきていたのかもしれない。あるいは、人間は自分以外のすべてに支えられて存在できると考える重々無尽からきたのではないだろうか。だから遊牧民も、友も、世代が違う社員も彼を信頼し、慕ったのである。
「国利民福」という信念を持って,行動を続けたのだとわかる.
ある意味幸せな時代だ.そして,食品業界というものが三島の性格とマッチしたのであろう.
現代で新しい食品を開発しても,開発費とマーケティングは当時と比べ物にならないぐらい選択肢が多く難しくなっているだろう.また既に大手がやっていたり新規参入が難しかったりする.
金に色はない.他人を騙すようなビジネスや自分だけが肥えるようなビジネスであっても金は金である.現代で純粋な気持ちだけでビジネスを大きくさせることは難しい.
しかし,純粋な気持ちで集まった人間は貴重な信頼できる仲間であるということを教えてくれる.
自分がどんなビジネスマンになりたいか考えさせられた.